ほとり日記

2017年1月からの日記

本棚を組み立て、ぐずぐずと考える

昨日、今日とひどい寝汗。早い時間に目をさますが、再び眠る。

10時前に起床。コーヒーを淹れて一服したあと、昨日届いたクールラック(本棚)の組み立て。2台目の組み立ては10分かからずに終わる。組み立てが簡単、丈夫で安価。前回初めて買ったときも思ったが、クールラックすばらしい。

床置きにしていた本、棚板がゆがんだ合板の本棚を夫の部屋から運び出し、クールラックを運び込む。明らかに棚板を買い足す必要があり、なぜ注文前に見通しを立てないのかと夫に文句を言う。

当座をしのぐための棚戻し作業を夫に任せ、コーヒーを淹れる。今回買った豆は全然膨らまない。何がいけないのだろう。

午後、夫と出かける。コンビニの前を通ると、子供の泣き声が近くに聞こえるのに姿が見えない。おかしいなと思って声のする方に近づくと、停められた自転車の子供用座席のカバーの中で1、2歳の子供が泣いてじれているのだった。座席の下の前輪が動き始め、自転車が倒れそうになり思わずハンドルを支える。「危ない!」と大きな声を出してしまったのが聞こえたのか、父親らしき男性が店から慌てて出てきた。男性の顔を見た途端、反射的に「なにやってんだよ!」と思ったが、ひどく責め立てるみたいにならないようにというとっさの意思が働いて、「危ない!危ないこれ!」「だめっすよこれ!」と微妙ななことばづかいになる。すいません、と申し訳なさそうに謝られる。子供がけがしなくてよかった。

近くの小さな不動産屋のガラス扉に「全員インフルエンザにかかったので休業します」という貼紙。仕方ないよ。夫の「パンデミック」という一言に笑った。

ランチの時間を過ぎてしまいどこも開いていないので、ファミレスで昼食。あたたかくて眠い。

写真家で狩猟家、末期がんを患う男性のブログがTwitterで流れてきた。病気のことを中心に冷静な文体でつづられるブログの内容は興味深いものだった。がんでなかったとしても、読みごたえのあるものを書く人のように思われる。

同時に、ブログに対するさまざまな反応にも考えさせられる。なぜがんという病気は、こうも人を「引きつける」(「惹きつける」「魅きつける」に見えることもある)のか。私自身、「がん」ということばが目に留まればつい読んでしまうし、こうしてぐずぐずと考えてしまう。

がんの標準治療はある程度確立されているし、早期発見が可能なものもあるし、他の難しい病気に比べれば「恵まれた」状況のものもあるようにも思われる。一定程度進行してしまうと完治が難しいというのはたしかに悲劇的にも思われるけれど、完治が難しい病気は他にもある。そもそも全員死ぬのだし。

完治が難しいというイメージ(=死を想起させる)、治療の困難さ(私みたいに全然楽なのもあるけど)、罹患率の高さ(=誰でも知るメジャーさ)、あたりがこれほどの引力をもつ理由だろうか。

それでも、自分ががんに罹っているとわかったときには怖かったし、手術から1年くらいは再発の恐怖が毎日拭えなかった。2年以上経った今も、再発したら、初発の比にならないくらい怯え、狼狽するのだろうとよく想像する。やっぱり私も旧来のイメージに左右されているのかな。

そもそも死の恐怖がある。そこを克服できていないから、がんでもなんでも病気は怖くてたまらない。

電車で移動。ばたばた、かつかつと音が延々とうるさいので、音の方を見ると父親の膝に座って足をばたつかせる6、7歳の女児の靴音だった。私の目線に気づいた父親が「うるさいなって顔してる人がいるからやめて」と女児にいうのを聞き、人のせいにしないでくれよと不快に思う。こういう叱り方をする親がいるとは聞くが、本当にこういう人がいるのだなという思いと、自分がその身になると思いのほか腹がたつのだなと思いがよぎる。「他人がどう思われるかを基準にして自分の行動を変化させる」という発想をあんな小さい時に教えない方がよいと思うのだが。

17時からSCOOBIE DOのライブ。初めて聴いたが、疾走感がすごい。全力疾走。心身が若々しいバンドマンたちの音楽だった。

地元に戻って、飲み屋で夕食。レモンサワー1杯で酔っ払う。

寝る前にGYAO!で、録画できなかったドラマ「アンナチュラル」を観る。細部の描き方にいちいちぐっとくる。